メメント・モリ

どうも、宮城です。

気づいたら2015年も折り返しを過ぎ、残り半分をきりました。
いやぁー速いですね。。。

ブログを書くたびに成長を実感できるのですが、
なかなか時間が確保できず。。。

マイペースにでも、続けていこうと思います。

今回は最近ヘビロテ中の、「カゲロウ」という、
かわいえいじさんの名曲について書いていきたいと思います。

ただの感想文ではなく、読んでくれた方に
何か得られるものがあるように書いていきますので、
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
(今回も長くなるんだろうな・・・苦笑)

この曲はラブソングなんですが、 僕がこの曲を聴いて、
歌詞を読んで頭に浮かんできたものは愛に関するイメージや言葉ではなく

「メメント・モリ」

という言葉でした。

これは、ラテン語で 「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味で
「死を想え」なんていう風に使われることも多いです。

なぜ、ラブソングなのに 「死を想え」という意味である、
メメント・モリという言葉が浮かんできたのかというと、
この曲に登場してくる人物が
心のどこかで「終わり」を意識しているような感じを受けたからです。

終わりを意識していながらも、その時間、空間、相手を愛している。
そんな強い想いを感じました。

「花は散るからこそ美しい」

という言葉もあるように、終わりがあるからこその美学というものは
確かに存在すると僕は思っています。

終わることをどこかで意識しているからこそ「今、ここ」に
力強い「生」のパワーが表れ、それが美しさに繋がっているということです。

例えば、プロ野球選手より、実力はかなり劣る高校野球なのに
多くの人を感動させるのは、終わりがある中で精一杯「今」を生きている様子が、
ひしひしと伝わってくるからです。

そして、この歌詞で出てくる人物は心のどこかで終わりを意識しながらも、
それでも終わらせたくない、でもそれは無理であろうことも知っている。
そういった大きな矛盾を抱えてるように感じました。

歌詞の中にも

“飽きもせずに今日も僕は探していました 世界を覆す呪文を”

“ゆるやかに死んでいく瞬間のひとつひとつに 名前をつけたら忘れずにいれる?”

このように、無理だと知っていながら、
それでも何とかしたいというような矛盾した感情が出ています。
(そういう風に僕は感じました)

その願望と絶望の間で心が揺れている
その心情もタイトルのである陽炎のように
もやもやとゆらめいているんじゃないかと。

その、ゆらめいている感情の中で

この瞬間を真剣に生きる。
目の前の相手に真剣に向き合う。

僕はここに普遍的な「愛」や「美しさ」を感じました。

僕らは普段生活している中で、
いつか終わりがくるということをつい忘れてしまいます。

恋人との関係が永遠に続くと思ってるから、
思いやりを忘れてしまったり

親がずっと生きていると思ってしまうから、
忙しいを理由に会いに行かなかったり

多くの人は、今日と同じような明日が続いていくんじゃないかと
無意識に思っているはずです。

「暇つぶし」なんて言葉は、
まさに続くと思っているからこそ出てくる言葉ですよね?

終わりが来ることを強く感じていたら、
つぶすような暇なんて生まれるはずはないですから。

もちろん僕も、ずっと続くんじゃないかと思ってしまうことはあります。

でも、そんなことはないんです。

不老不死なんてものはないし、
100%の安全なんてものもない、
世界中すべての人に当てはまる正しい答えもない。

だからこそ、自分が「今、ここ」を真剣に生きることを
意識していかなければいけないと思うんです。

死ぬ間際に自分の人生を振り返って、
「うわー、つまらない人生だったなー」とか
「全然、印象に残ってないや」なんて思いたくないですよね。

そのためには、「今、ここ」を真剣に
自分自身として生きていかなければいけません。

さっきも言ったように世界中すべての人に当てはまる
正しい答えなんてものはないんです。

答えは、自分自身で作るものです。

自分の生き方は正しかったのか、
その答え合わせは死ぬまでできないでしょう。

生きている間に答えなんてものは見つからないんです。

自分自身が「正しい」と思った生き方をしていくしか、
後悔しない生き方は無いと僕は思っています。

カゲロウという曲から、こんな事を学ばせてもらいました。
もちろん、こんな意図で曲も詞も書いてないと思いますが…苦笑

僕はツイッターで、
「本当に美しいものを、言葉や写真で表現するのは、
その美しさを汚す行為なのかもしれない」
と書きました。

これは、カゲロウを聴いて感じたことです。

だからこそ、ただの感想文で終わらせず、
僕が誰かの役に立つように文章を書くことが、
汚してしまった作品への贖罪のようなものだと思っています。

この文章を読んで、何かを感じてくれた人、 何も感じなかった人も
ぜひ、かわいえいじさんのカゲロウを聴いてみてください。

僕が感じた、感覚が正しいかなんて、どうでもいいんです。
ただ、素晴らしい曲と歌詞で、あなた自身が何かを感じ取ってください。

もちろん僕もできるだけ、作り手の意図から離れたくないので、
何回も繰り返し聴きましたし(単純に曲が好きってのもありますが)
歌詞も、ノートに2回、パソコンで2回書き写して、
どんなことを考えながら書いているのか、できるだけ想像するようにはしていました。

気づいたら4日間で100回超えてましたね・・・笑

 

スクリーンショット 2015-07-04 10.07.54

それでも、あなたが感じた感想があなたにとって正解だと思うんです。
大事なのは、自分の人生にどう活かすか、どんな価値を見出すかですから。

僕のこの文章が、新しい可能性を開くそんなきっかけになれば嬉しいです。

【好きなことをすることと、自分らしくいること】

過去のFacebookの投稿で、
https://www.facebook.com/chaochao.joy/posts/353357421514438

“人は好きなことを仕事にしたいんじゃなくて、
自分が味わいたい感情を長く味わえると思って、
好きなことを仕事にする選択をしている。

だから、自分はどんな感情を味わいたいのかを考え、
それを味わえそうな仕事をしたらいいんじゃないか。”

 

というような話をしました。

 

基本的に今でもこの考えは正しいと思っていますが、
ここ数日、人と話しているうちにまた別の考えが出てきたのです。

今回はそれについて話します。

 

まず、

「好きなことをして生きていく」

「やりたいことをやって生きていく」

と考えた時に多くの人は

 

「職業」という大きな枠で考え始めます。

 

どんな仕事をしたいのか、と

 

この発想は非常に危険で、
その仕事をしていない自分= 幸せじゃない

と定義してしまうので、その仕事で結果を出すまでは常に幸せじゃないという感情がつきまとう可能性があります。

 

しかも職業という大きな枠は、網の目が荒いザルのようで、
「味わいたい感情」
「味わいたくない感情」

両方どんどんと通してしまうので、

 

結果的に好きな職業についているはずなのに、幸せじゃない人を生み出す可能性を内包しています。

 

 

次に、もっと細かい
好きな「行為」から自分の仕事について考える人。

 

これは、
文章を書くのが好き
人と話すのが好き
細かい作業をしているのが好き
お酒を飲むのが好き
音楽を聴いているのが好き

このようなことです。

 

昨日まで僕は、自分が好きなこと(行為)をやっているときに、
味わってる感情に気づき、その感情を味わえそうな仕事(提供出来る価値)を探せばいいんじゃないかと思ってました。

 

でも、今朝起きてぼーっと考えてるときに思ったんです。

 

【行為のレベルで考えても、まだザルの目は荒い】と
そう思ったんです。

すごく当たり前のことですが、

 

”人と話すのが好き”って言ったって、誰と話してても楽しいわけじゃないですよね?
“文章を書くのが好き”って言ったって、どんな文章を書いてるのも楽しいわけじゃない。

 

つまり、【行為自体に絶対的な好き嫌いは存在しないんです】

 

じゃあ、どうすればいいのか?

 

「行為」にフォーカスするのは変わりませんが、好きな行為だけではなく、嫌いな行為についてもフォーカスすることです。

 

そして、1つ2つなどの少ない数ではなく、10や20など、もっと大きな数で考えます。

 

例えば、

 

文章を書いているときに、
「楽しいと思う時はどんなときか?」

「嫌だなと思う時はどんなときか?」

 

勉強をしているときに
「楽しいと思う時はどんなときか?」

「嫌だなと思う時はどんなときか?」

 

人と話しているときに
「楽しいと思う時はどんなときか?」

「嫌だなと思う時はどんなときか?」

・・・・

 

このように両方の側面について考え、
それを複数の対象に行うと必ず共通点が見えて来ると思います。

たとえば、僕の場合は

「好奇心」と「集中」でした。

 

好奇心を感じるときは、何をしてても楽しいし、

集中しているときは、何をしてても嫌な感情は湧いてこない。

 

この共通点をあなたのセルフイメージの中心、つまり自分らしさの中心に位置付けてください。

 

そして、

 

あなたが、見つけた共通点は僕と違うかもしれませんし、
もしかしたら同じかもしれません。
どちらでもいいのですが、大切なのは、自分なりに定義をするということです。

 

僕の例で言うと、一般的に言われる「好奇心」「集中」の定義と違っていてもいい。

 

自分の感情の全てを言葉で表すことはできません。

だから、あなたにとってしっくりくる言葉で定義すればいいのです。

 

そして、日常行っている行為の1つ1つに対して、
どうすれば自分らしさを味わうことができるのか?

 

これを考え、毎日を過ごせば、

好きな職業についていなかったとしても、
好きな行為をできていなかったとしても、

充実した毎日を過ごしていけます。

 

その場所から、より多く好きな行為や好きな仕事ができるようになるための行動を起こしていけばいいんじゃないかと思います。