迷宮への招待状

今日は、朝日カルチャーセンター主催の堀内進之介氏とNMB48の須藤凜々花さんの実存哲学に関する講義に参加してきた。

 

自分がカルチャーセンター主催のイベントに参加するなんて、数年前まで思ってもいなかった(やっぱりカルチャーセンターって中高年以上の人向けなイメージが。。。)

 

大学にも行ってないし、ビジネスがきっかけで哲学を学び始めた自分としては、正直哲学のカテゴライズには興味がなくて、カントやヘーゲル、ホッブス、ニーチェなど様々な哲学者や社会学者の考えを自分のビジネスや生き方に落とし込むかということを重視しているので、実存哲学という一分野の講義というのは非常に興味深かった。

内容としては、著書で語られていることをベースに実存哲学の本質に迫っていくというような内容でした。

 

ここで具体的に書いてもいいけど、あの場にいないと得られない感覚が多いので、興味がある方は著書「人生を危険にさらせ! 」を読む方がいいと思います。。

今回の講演の感想として、著書の感想にも通じる部分もありますが、
“入門編として、とてもわかりやすくもあり、非常にわかりにくいものでもあった”と私は感じました。

 

これは、講師2人の問題ではなく、聞き手である私たちの問題です。

講演タイトルに「招待」と銘打っている以上、専門用語をバンバン使っての講義にすることは出来ず、どうしても抽象的かつ本質を捉えた言葉で話しを展開せざるを得ません。

 

難しい言葉をわかりやすく語るということは、重要だと思いますし、すごくスキルが必要なことです。しかし、専門用語というのは定義がしっかりしているため認識の相違が起こりにくいという重要な面を持っています。

 

逆にわかりやすい日常語や抽象的な言葉というのは、個々人の定義が曖昧で認識の相違が生まれやすく、そして“わかった気になりやすい”ものなのです。

 

「ヤバい」「ウケる」で会話が成立してしまうような若者を想像してもらえれば、なんとなくイメージがつくかもしれません。何がどうヤバいのか、何がウケるのかを一切説明していないにもかかわらず、なんとなく共有できている気になってしまうのです。(別に否定をしているわけではないです)

 

それを今回の講演に当てはめると、
「話している言葉や内容の意味はわかった。けど、それが本当に意味していること、自分の人生にどう影響を及ぼすかは簡単にはわからない」のです。

 

今回の“招待”は、コナンや金田一などの探偵ものの物語によくある、パーティーに誘われ楽しみに行ったら、大きな事件に巻き込まれてしまった。

個人的には、そんな招待状のような感じがしました。

迷宮入してしまうのか、どうかは参加した私たち次第、
だからこの著書や講義をきっかけに、哲学書を読んでみたり、話していた内容を自分の実生活に当てはめて考えてみると世界の見え方が変わるんじゃないかと思うし、自分自身もわかった気にならず、常に自分の頭で考えることを意識していこうと改めて気付かされた講義でした。

 

最後に講師の方に対する感想を

まずは、須藤さん。
アイドルであることや名前、哲学者になりたいということは知っていたが、特にファンという立場ではなく、参加させてもらったのですが、自分の頭で考え、自分の言葉で語るという姿勢は尊敬します。(偉そうに見えたらすみません)
アイドルの立場から哲学を語ることで、アイドルファンに哲学を好きになるきっかけを与えると思うし、逆に哲学好きの人にアイドルを好きになるきっかけを与えられると思います。

ガダマーの言っていた地平融合を多くの人と起こせる移動力があると思います。(僕がビジネスで意識している部分でもあります)

これから興味を持って追いかけていきたいと思いました。

 

 

堀内さんは
哲学に限らず、いろんな情報をその人に合わせ提示し答えを導くスキルが素晴らしく、コンサルタントをしている自分には参考になる部分が多かったです。
一番すごいなーと思った部分は、須藤さんの「素」を引き出すためにあえて厳しい問いを投げかけたり、感情を表に出すように仕向けたりしていた部分でした。

あれは、アイドルという立場上、相対的になりかねない須藤さんへの助け舟な気が個人的にはしていました。そうして、主張を議論の場にあげる助けをしていたのではと勝手に関心してしまいました。

うーん。最後は講師に対するお礼文みたいな感じになってしまいましたが。。。苦笑い
哲学的な知識としては、特に目新しいものはなかったけど、実践的な学びの多い講演でした。

 

 

P.S 講演の最後に質問コーナーがあり、気になった質問の個人的な回答を
(質問内容はすごくざっくり意訳してます)

Q 後悔しない人生の過ごし方はあるのか
A 人は経験や知識を積み日々成長する存在だから、今日の自分は昨日の自分よりも良い判断ができる。だから後悔するのは当然である。個人的なスローガンは「人生すべてが黒歴史」

Q 死が怖い理由
A 時間の連続性による一貫性が人間の存在を担保しており、死はその連続性を絶ってしまうため、自分が無になることに対する恐怖だと思う。(新しいことを始める恐怖も一貫性が崩れるから怖いんだと個人的に思ってます)
あぁー文章、書き直したいけど感想だから勢いも大事だ!と自分を納得させようw

ポジティブな諦め

こんばんは、宮城です。

今日は、前置きもなく本題に行きたいと思います。

「ポジティブな諦め」

というテーマでお話ししていきます。

人間の悩みの大部分は人間関係に関わるものです。

他人の評価が気になるのも、
お金がないことで悩むのも、
仕事がうまくいかないことで悩むのも、
好きな人に告白できないのも、

結局は周りの人にどう思われるだろうか?
ということを考えてしまうから悩んでしまうわけです。

人間関係の悩みが少しでも解消されれば、多くの人は
今よりも自由な人生を生きれると思っています。

その人間関係の悩みを解消するために大切なこと

それが
「ポジティブな諦め」
を持つということなのです。

ポジティブな諦めとはどういうことか

それは・・・
「他人と完全にわかり合えることはない」
と理解することです。

言いたいことに納得してくれない時はもちろん、
言いたいことに納得してくれた時も、

完全にわかり合えることはないのです。

言いたいことに納得してくれてるのに、
わかり合えないってどういうこと?

そう思う人の方が多いと思うので、
いくつか例を出したいと思います。

例えば、食事に行って
「これ美味しいね」と家族や友人と共感することは
日常生活でよくあるシーンだと思います。

でも、人それぞれ美味しいと思ったポイントや
美味しいの度合いは違うはずです。

これは、「美味しい」という結論は一緒であっても、
その判断基準が異なるため、完全にわかり合えてる
わけではありません。

また、風邪を引いたときにつらさをわかってほしいと思ったり、
自分の仕事の忙しさや大変さを同僚にわかってもらいたいと
思う人もいるでしょう。

そのつらいという状況を、自分の過去の経験と照らし合わせて
想像し歩み寄ることはできますが、
100%完全に同じ状態を理解することはできませんよね。

極端な例を言えば、
女子高生などがよく言う

「ウケるー!」

という言葉(よく言いますよね!ね⁉︎ ね⁉︎ 笑)

これなんて、なんとなく理解し合えてるような気がしますが
個人個人で感じてることは絶対違うと思います。

人は物事を理解するときに、自分の過去の経験や知識などの
フィルターを通して理解することしか出来ない以上、
100%相手のことを「わかる」ことは出来ません。

山崎まさよしの「セロリ」じゃないですが、
「育ってきた環境が違うから、好き嫌いはイナメナイ」
「もともと何処吹く他人だから価値観はイナメナイ」のです。

だから、
「わかってもらいたい」「わかってもらえる」などという期待は
大なり小なり裏切られることになるので、
そういった期待を持つことは自分を悩ませ、苦しめるのです。

だから、完全にわかり合えるという幻想を
「諦める」必要があるのです。

人によっては、こういうことを言うと、
「わかり合えないなら他人と関わる意味なんてないじゃないか」
そう思ってしまう人もいるかもしれません。

しかし、それは違います。

僕が、「ポジティブな諦め」と記したのには意味があります。

他人と関わる意味なんてない。

そう思って内に閉じこもるのは、ネガティブな諦めです。
これでは自分も世界も何一つ発展していきません。

人とは完全にわかりあえることはないけれど、
人と関わらないと生きていけないのもまた事実です。

そして、喜びなど人生を豊かにしてくれる感情も
ほとんどの場合は人と関わることで生まれます。

わかり合えないからと言って諦めるのではなく、
それは理解した上で、自分の思いや考えなどを
工夫し、全力で相手に伝えます。

そして、それが相手に伝わるのか、理解してもらえるのは
どちらでもよくて、どちらにせよ相手がいい人生を
送ってくれるのであれば、それでいい。

同じように、自分も自分にとって良いと思う生き方をする
それは他人の評価は関係ない。

自分は自分、他人は他人と考えることが
ポジティブな諦めになるのです。

その諦めを持てれば、人間関係や土地、仕事などに縛られず
軽やかに移動することができるんじゃないかなと思っています。

嫌々ながらも、そこに縛られているのは、
きっとわかってもらえるというような
期待を持っているからなんだと思います。

そんな自分でコントロール出来ない可能性に
自分の人生を賭けるなんてもったいないです。

よく、自己啓発書などで
「他人を変えるより、自分を変えろ」
というようなことが、書かれていますが、

それは本質的に人とは完全にわかり合うことは出来ない
というところから来ているのではないかと思うんです。

わかり合えること、他人を変えようとすることを諦める

わからないからこそ、相手に興味を持つし、考えるし、
話を聞くし、自分の考えを伝えようと思う。

そしてお互いに少しでも影響を与え合い、自分の人生を豊かにしていく。

そんな人間関係が健全な人間関係だと僕は思っています。

この曲は、今回のテーマと関係はないけど、
この文章を書いたあとに、ふと聴きたくなった曲

GOOD ENOUGH / TRICERATOPS

メメント・モリ

どうも、宮城です。

気づいたら2015年も折り返しを過ぎ、残り半分をきりました。
いやぁー速いですね。。。

ブログを書くたびに成長を実感できるのですが、
なかなか時間が確保できず。。。

マイペースにでも、続けていこうと思います。

今回は最近ヘビロテ中の、「カゲロウ」という、
かわいえいじさんの名曲について書いていきたいと思います。

ただの感想文ではなく、読んでくれた方に
何か得られるものがあるように書いていきますので、
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
(今回も長くなるんだろうな・・・苦笑)

この曲はラブソングなんですが、 僕がこの曲を聴いて、
歌詞を読んで頭に浮かんできたものは愛に関するイメージや言葉ではなく

「メメント・モリ」

という言葉でした。

これは、ラテン語で 「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味で
「死を想え」なんていう風に使われることも多いです。

なぜ、ラブソングなのに 「死を想え」という意味である、
メメント・モリという言葉が浮かんできたのかというと、
この曲に登場してくる人物が
心のどこかで「終わり」を意識しているような感じを受けたからです。

終わりを意識していながらも、その時間、空間、相手を愛している。
そんな強い想いを感じました。

「花は散るからこそ美しい」

という言葉もあるように、終わりがあるからこその美学というものは
確かに存在すると僕は思っています。

終わることをどこかで意識しているからこそ「今、ここ」に
力強い「生」のパワーが表れ、それが美しさに繋がっているということです。

例えば、プロ野球選手より、実力はかなり劣る高校野球なのに
多くの人を感動させるのは、終わりがある中で精一杯「今」を生きている様子が、
ひしひしと伝わってくるからです。

そして、この歌詞で出てくる人物は心のどこかで終わりを意識しながらも、
それでも終わらせたくない、でもそれは無理であろうことも知っている。
そういった大きな矛盾を抱えてるように感じました。

歌詞の中にも

“飽きもせずに今日も僕は探していました 世界を覆す呪文を”

“ゆるやかに死んでいく瞬間のひとつひとつに 名前をつけたら忘れずにいれる?”

このように、無理だと知っていながら、
それでも何とかしたいというような矛盾した感情が出ています。
(そういう風に僕は感じました)

その願望と絶望の間で心が揺れている
その心情もタイトルのである陽炎のように
もやもやとゆらめいているんじゃないかと。

その、ゆらめいている感情の中で

この瞬間を真剣に生きる。
目の前の相手に真剣に向き合う。

僕はここに普遍的な「愛」や「美しさ」を感じました。

僕らは普段生活している中で、
いつか終わりがくるということをつい忘れてしまいます。

恋人との関係が永遠に続くと思ってるから、
思いやりを忘れてしまったり

親がずっと生きていると思ってしまうから、
忙しいを理由に会いに行かなかったり

多くの人は、今日と同じような明日が続いていくんじゃないかと
無意識に思っているはずです。

「暇つぶし」なんて言葉は、
まさに続くと思っているからこそ出てくる言葉ですよね?

終わりが来ることを強く感じていたら、
つぶすような暇なんて生まれるはずはないですから。

もちろん僕も、ずっと続くんじゃないかと思ってしまうことはあります。

でも、そんなことはないんです。

不老不死なんてものはないし、
100%の安全なんてものもない、
世界中すべての人に当てはまる正しい答えもない。

だからこそ、自分が「今、ここ」を真剣に生きることを
意識していかなければいけないと思うんです。

死ぬ間際に自分の人生を振り返って、
「うわー、つまらない人生だったなー」とか
「全然、印象に残ってないや」なんて思いたくないですよね。

そのためには、「今、ここ」を真剣に
自分自身として生きていかなければいけません。

さっきも言ったように世界中すべての人に当てはまる
正しい答えなんてものはないんです。

答えは、自分自身で作るものです。

自分の生き方は正しかったのか、
その答え合わせは死ぬまでできないでしょう。

生きている間に答えなんてものは見つからないんです。

自分自身が「正しい」と思った生き方をしていくしか、
後悔しない生き方は無いと僕は思っています。

カゲロウという曲から、こんな事を学ばせてもらいました。
もちろん、こんな意図で曲も詞も書いてないと思いますが…苦笑

僕はツイッターで、
「本当に美しいものを、言葉や写真で表現するのは、
その美しさを汚す行為なのかもしれない」
と書きました。

これは、カゲロウを聴いて感じたことです。

だからこそ、ただの感想文で終わらせず、
僕が誰かの役に立つように文章を書くことが、
汚してしまった作品への贖罪のようなものだと思っています。

この文章を読んで、何かを感じてくれた人、 何も感じなかった人も
ぜひ、かわいえいじさんのカゲロウを聴いてみてください。

僕が感じた、感覚が正しいかなんて、どうでもいいんです。
ただ、素晴らしい曲と歌詞で、あなた自身が何かを感じ取ってください。

もちろん僕もできるだけ、作り手の意図から離れたくないので、
何回も繰り返し聴きましたし(単純に曲が好きってのもありますが)
歌詞も、ノートに2回、パソコンで2回書き写して、
どんなことを考えながら書いているのか、できるだけ想像するようにはしていました。

気づいたら4日間で100回超えてましたね・・・笑

 

スクリーンショット 2015-07-04 10.07.54

それでも、あなたが感じた感想があなたにとって正解だと思うんです。
大事なのは、自分の人生にどう活かすか、どんな価値を見出すかですから。

僕のこの文章が、新しい可能性を開くそんなきっかけになれば嬉しいです。

【夢は人に託せないけど、夢の一部は託すことができる】

どうも、宮城です。

久しぶりのブログ更新になってしまいました。

ここ最近はFacebookも利用せず、ほぼTwitterで発信をしています。

ブログやFacebookだと、どうしても長く重たい内容になってしまうので、Twitterのような文字制限がある方が軽い感じで投稿できるので自分には合ってるのかもしれないですね。

 

で、そんな中ブログを更新してるわけですが。。。苦笑

 

それは、単純に文字数がTwitterじゃ足りなすぎることを書きたかったからです。

まあTwitterで短い文章での発信を慣らした僕ですから、ブログとはいえ、そんなに長くなりませんので(きっとね)、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

(え、前置きが長い??)

 

では、早速本題へ入っていきましょう。

TwitterやYahooニュースを賑わせ、数多くの炎上を生み出してきたキングコングの西野さんですが、現在こんな企画を行っています。

 

【世界初】キングコング西野が、常識破りの手法で絵本『えんとつ町のプペル』を作るhttp://wesym.com/ja/projects/nishino/

 

演劇界や漫画界では当然のように行われている分業制ですが、絵本の世界では1人の作者が全てを行っているのが常識のようで。(ここは業界に詳しくないので、お許しを)

 

そのことに疑問に思った西野さんが、分業制にて絵本を作ってやろう!という企画です。しかも、ただ分業制で実施するわけではなく、日本のトップクラスのスペシャリスト達を集めて絵本を作るようです。

 

そうなってくれば、当然制作費はかさみますよね。

 

だから、その制作費をクラウドファンディングで集めようという試みです。

 

と、概要をざっくり説明しましたが、単純に宣伝だけをしたかったわけではないので、この企画についてより詳しく知りたい方、この祭りの神輿を一緒に担ぎたい方はこちらから確認してみてください。

http://wesym.com/ja/projects/nishino/

で、何が言いたいのか?そしてなぜ西野さんの企画を紹介したのかというと、

 

【夢は人に託せないけど、夢の一部は託すことができる】

ということを言いたかったからです。

 

これを読んでいるあなたも、子どもの頃から、今までたくさんの夢を描いてきたと思います。

 

サッカー選手になりたい
パイロットになりたい
アイドルになりたい
社長になりたい
お金持ちになりたい
ミュージシャンになりたい

 

人それぞれ夢がある(あった)と思います。

 

でも、現実はその全てを叶えられるわけではないですよね?

パイロットになるためには、視力制限があったり、
アイドルになるためには、生まれ持った容姿も大きく影響してくる。

 

もちろん絶対に叶わないとは思っていませんが、現実的に考えると物理的に不可能なことがあるのも事実です。

 

それで夢を諦めた人、そして、夢を描くことを止めた人も多くいると思いますし、そういう人もたくさん見てきました。

 

 

でも、夢というのは「一つの職業のことなんでしょうか?」

 

僕は違うと思っています。

夢というのは、もっと漠然とした「概念」のようなものだと思っています。

寝ている時に見る夢もけっこう漠然としたものですよね?

 

でも、多くの人は子どもの頃から周りに「何になりたいの?」と言われ続けたことによって

特定の職業=夢

になってしまっているんだと思います。

 

だから、就職した段階で多くの人はその夢を失ってしまう。

でも、「夢=概念」と考えれば、そこにたどり着くための道は1つではないわけです。

 

今回取り上げている西野さんの例で言うと、

 

お笑い芸人になるというのが夢であれば、芸人として活動、

舞台でコントや漫才をする
バラエティ番組に出演する

など、限られた道しかありません。

 

でも、西野さんは

「世界で一番面白いやつになりたい」
そんな夢を持っているんです。

 

こういう夢を設定することができれば、何でもできるわけです。

漫才やコント、バラエティ番組の出演はもちろんですが、絵本を書いたり、街を作ったり、独演会のチケットを手売りしたり、

もしかしたら、会社を作ってビジネスをすることだって「面白い」と思ったらできるわけです。

 

それこそ可能性は無限大。

1つ失敗したって道が閉ざされるわけではありません。

 

じゃあ、次の面白いこと考えよー

と軽々動き出すことができるんです。

 

例えば、これを読んでいるあなたがサラリーマンだったとしても、新しく「概念」としての夢を設定すれば、それに向かって一気に可能性が開かれるわけです。

 

サラリーマンだろうが、フリーターだろうが、主婦だろうが関係ありません。

自分の出来るところから夢を叶え始めることが出来るんです。

 

そして、夢を「概念」とするなら、自分が共感する人を応援することで、夢の一部を託すことも出来るのです。

 

 

例えば、多くの人を喜ばせたいというのが夢だった場合、自分1人で出来ることには様々な制約があります。

 

でも、自分が共感出来るような活動をしている人を支援することで、その輪を大きくすることが可能になります。

 

自分の夢を叶えるための行動をすることも、誰かの夢を応援することも最初はとても小さく、目に見えて現実を変えるものではないかもしれません。

 

でも、その一歩がなければ永久に変わることもないのです。宝くじを買わなければ永遠に当たることがないのと同じです。

 

もし、今よりも充実した毎日を生きていきたいなら、今からでも遅くありません。新しい夢を描いて進んでみてはいかがですか?

 

 

最初は誰かの夢を応援するという小さなところから始めても構わないと思います。

特に西野さんの企画なんかは、その過程もしっかりと見せてくれるし、世の中に対して大きなインパクトを生み出すと僕は思っています。

 

そこに関わることで、自分の夢を見つめる機会にするのもいいんじゃないかと思いますよ。

 

【世界初】キングコング西野が、常識破りの手法で絵本『えんとつ町のプペル』を作るhttp://wesym.com/ja/projects/nishino/

 

P.S 結局長くなってしまいました・・・しかも西野さんの宣伝みたいになっちゃってますね。苦笑

諦められる贅沢

Igiveupkitty僕のTwitter(@starjet_kota)でAKBについて語っていたら、AKBファンと思われるフォロワーが何名か増えたので、欲を出して今日もAKB絡みのネタを。(と、言ってもAKBについて語っているのかどうかは最後まで読んで判断ください笑)

なんだかんだで毎年注目されている(らしい)AKB総選挙、10代や20代前半の子に対して、明確に順位をつけるって結構残酷なことだという人もいますが、僕個人的な感覚からすると、すごく羨ましい経験をしているなと思います。

なぜ羨ましいのか、

それは諦めることができるからです。

なんで諦めることができると羨ましいのか。

諦めるというと、かなりネガティブな意味で捉える人が多いと思いますし、僕も昔はそう思っていました。

でも、実際は違ったのです。
諦めるを辞書で調べると、

“希望や見込みがなくてやめること”
“断念すること”

と書かれています。

僕を含め、ほとんどの人が考えている意味とも一致してると思います。

ここで気になるのが、
“諦”
という中途半端に難しい漢字です。笑

これを調べてみると、

明らかにする、見きわめるという意味で「諦視」
本質をはっきりと見きわめるという意味で「諦観」

という言葉で使われています。

つまり、“諦”という字には、
「しっかりと見る」という意味が込められています。

AKB総選挙の話に戻すと、これはAKBのセンターを決める投票です。

一人一票ではないので、一番センターに相応しい人がセンターになるとは限りませんが、一人のファンの力ですべてをひっくり返せるくらいの投票数でもないので、まあ限りなくセンターに相応しい人が選ばれるんだと思います。

アイドルや芸能界に憧れて入るような人たちですから、センターとは言わずとも、いい位置でスポットライトを浴びたいとは思っているでしょう。

そんな人たちに対して、はっきりと数字で何位と示されるわけです。(しかも順位が発表されない圏外もあるとかないとか、、、)

それだけじゃなく、握手会とか番組収録などで常に比較競争されるわけです。

つまり嫌でも自分の立ち位置を意識させられる。

どれだけガンバっても、越えられない壁がある。
やれることはやっているはずなのに、届かない。
「努力は報われる」と言われたりもするけど、報われない経験を山ほどするわけです。

自分を何度も何度も見つめ、周りを見て気づかされるのです。

「あぁ〜ダメなのかもしれない、、、」と

先ほど諦には「しっかりと見る」という意味が込められていると言いました。

自分を成長させ、自分を追い込んで、それでもダメだったとき、本当の意味で諦めることができるのです。
もちろん自分を徹底的に見つめて、その上で
「まだイケるはず」
と諦めないのも素晴らしいことだと思います。

大切なのは、“自分の現実を見つめるられたのか”です。

世の中の多くの人は、大してガンバってもいない、中途半端にやってガンバってるつもりになっているなど、本気で何かに打ち込んだ経験が少ない人だと思います。

もちろん、あなたのせいというより、社会全体のせいと言えるでしょう。

つまり、“諦めること”も“諦めないこと”もできていないのです。

そして、「もしあの時◯◯だったらな〜」とありもしないifの可能性に死ぬまで思いを馳せ続けるのです。

僕から見るとそれは、自分が起きようとすれば起きれるのに、植物人間のようにただ生かされ続けてるだけの存在に思えます。
諦めるって、その時は正直かなり辛いですよね。

でも、諦めるという経験があるから、自分が出来ることが見えてくるのです。

「自分はしょせん才能もない人間だ」というネガティブなことが言いたいわけではないです。

もっとポジティブな意味で、「これなら出来る」という意味での自分が出来ることが見えるということです。

だって考えてみてください。
芸能人にもなれるかもしれない
大金持ちにもなれるかもしれない
総理大臣になれるかもしれない
プロサッカー選手になれるかもしれない
アイドルになれるかもしれない
社長になれるかもしれない
ボクサーになれるかもしれない
漫画家になれるかもしれない




思いつく限りの可能性がすべて平等にあったらどうですか。
何をしたらいいか選べなくて、何もできなくなりませんか。

選択肢が限定されてくるからこそ、自分に出来ることが明確に見えてくるのです。

60歳になって、プロボクサーになる。
壮大な夢だとは思いますが、今の現実が見えてませんよね。

総選挙で何年も下位なのに、毎年総選挙で1番を目指します!と宣言する。
かっこいいとは思いますが、それよりも、自分が出来ることをしっかり見つけそこに力を注いでいった方が応援してくれるファンを喜ばせることができますよね。

本来の意味で諦められるくらい全力を尽くせているのは、とても贅沢なことなんです。

AKBのセンターのような1つのポジションは取れなかったかもしれません。

でも、その人の人生はそれが目的ではないですよね。それはあくまで目的を達成するための1つの手段でしかなかったはずです。

あなたにできることは、中途半端にいつまでもAKBのセンターのようなポジションを目指すことではなく。今、自分のいる場所から、出来ることを見つけていくことです。

なんか、AKBのことを例に上げ続けたらメンバーへのメッセージみたいになってしまいましたね苦笑(まあ、メンバーが読むことはないでしょうが)

こんな長文を最後まで読んでくれた方も、小さいころと夢の形は変わってしまったかもしれませんが、現在地から諦めても後悔しないような生き方をしていただけると僕は嬉しいです。

どうせ最後は死ぬのに、いつまでも力を温存してたらもったいないじゃないですか。

人間の構造上、ぽっくり死ぬまで休まず走り続けることはできませんから。

「努力」=「報われる」ではない

65d97ba6-sAKBの総選挙の速報もあったので、それに絡めたネタを。

AKBの高橋みなみさんが「努力は必ず報われる」とよく使っている(らしい)

「努力は必ず報われる」これは個人的に間違いだと思っています。

その理由をお話ししていきます。

まず、「努力」という言葉がわからないという人はほとんどいないと思います。

しかし、よく考えると「努力」というのは、力を尽くして励むことという意味ですが、わかるようでいまいちピンと来なくないですか。

100メートルダッシュ10本を努力というなら、基準があってわかりやすいですが、力を尽くして励むって、人によってだいぶ違いますよね。

例えば、アイドルをRPGのキャラとして考えたとき、レベル10の人と、レベル5の人では力を尽くしたとしても、倒せる敵が違うのは想像出来ますよね。

そんな中、AKBの総選挙のように限られたポジションを複数の人で奪い合うときに努力が必ず報われるなんてことは無いんです。

また、「報いる」という言葉についても考えてみましょう。
なんとなくのニュアンスで使っている人も多いと思いますが、

「報いる」とは、受けた事に対して、それに見合う行為を相手に行うことを言います。

この意味の中で重要なのは「見合う」という言葉です。

つまり、「つりあう」ということですね。

叶えたい夢や目標に対してつりあわなければ、いくら努力をしても報われないのです。

言い方を変えるのであれば、「相応しく」なきゃいけない。
相応しくなれば報われる、ということです。

つまり「努力」=「報われる」ではなく、

「努力」をした結果、「相応しく」なることができれば、「報われる」ということです。

この「相応しい」は非常にポイントです。

「相応しく」あるためには、何になりたいのか、どうありたいのか、どうあるべきなのか、などが明確になっていなければいけません。

100万円を稼ぎたい
いい大学に入りたい

という目標が努力してもなかなか叶わないのは、目標自体が明確であっても、「相応さ」が明確になっていないから。

自分の夢や目標を持つこと、それを叶えるために努力することは素晴らしいことだと思います。だからこそ、今一度「相応しさ」についても考えてもらいたいと思います。

【音楽なんてものはある人にはクズ、ある人にはゴールド。それでいいんだ】

これはヴァン・ヘイレンのギタリスト、
エドワード・ヴァン・ヘイレンの名言です。
(ロックの名言TOP10みたいな企画とかにはだいたい載ってたりします)

 

これって、人間関係で悩んでる人にはぜひ読んで考えて欲しいんですが、

 

たとえば、
「ロック」と「クラシック」、「J-POP」の曲って枠組みが違うだけで、優劣をつけるものじゃないですよね?

 

ヴァン・ヘイレンが好きな人にとってはヴァン・ヘイレンの曲は価値が高いし、
AKB48を好きな人にとっては、AKBの曲の方が価値が高い。

この話はすぐに理解してもらえると思うんです。

 

だけど、「あなた」と「他人」が違うことに関しては勝手に優劣をつけてしまったりしますよね?

 

あの人と比べて自分はダメだ、とか。
仕事で注意されたから自分はダメだ、とか。
恋人がいないから自分はダメだ、とか。

 

「あなた」と「他人」は音楽で例えるともともとジャンルが違うわけですよ。それなのに優劣をつけるって矛盾してませんか?

こういう話を人にすると毎回のように、「でも、仕事で注意される人と注意されない人、成績がいい人、悪い人がいるじゃないですか?」って反論を受けるんですが、

 

 

これは優劣ではなくて、場面が違うだけ。

 

アイドルフェスに、ゴリゴリのハードロックバンドが参加しようとしても、
「いや、ここはそういう場ではないので」って当然言われますよね?
それと同じです。

 

別の例えで言うなら結婚式で新郎新婦よりも、出席した友人が目立っちゃダメなのと同じこと。

 

大切なことなので繰り返しますが、

優劣の問題ではなく、場面に合わなかっただけ。

 

 

自己否定に走りがちな人は、どうしても一つの場面で優劣を付けがちです。

仕事が出来る、出来ない。
恋人がいる、いない。
お金がある、ない。
成績が良い、悪い。

この一つの場面で自分や他人を評価してしまうから、かんたんに優劣の話にすり替えてしまってるわけです。

 

そんなのは優劣なんかじゃなくて、ただの結果の違いなだけですから。

【音楽なんてものはある人にはクズ、ある人にはゴールド。それでいいんだ】

人によって価値観が違うのは当然です。
それはあなた自身の価値には何も関係ありません。

その場面で現在出ている結果が自分の望むものでない場合は、望む結果が出るように改善していけばいいだけです!

 

ということで、最後にヴァン・ヘイレンの曲を
「Not Enough」

マインドの重要性を知るには、学生スポーツを見るべし!

こんにちは、宮城です。

 

今日は、Evernoteを整理してたら出てきた

去年の夏高校野球を見て感じたことを書いた文章をアップします

 

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夏の高校野球を地方大会から何試合も観る機会があって、そこで感じたこと。
それはやっぱり最後はマインドの差が結果にあらわれるということ。

地方大会で9回に奇跡の大逆転を起こした、星稜高校

(これも諸事情で中継を観てました)

 

大差をつけられている状態であっても、ベンチには諦めムードが感じられませんでした。その結果奇跡の大逆転。よく野球は9回ツーアウトからと言いますが、それを体現するような出来事でした。

 

その星稜高校、実はメンタルトレーナーがついているんです。

星稜高校のピッチャーは打たれて点数を取られても、苦笑いは浮かべるが落ち込んだり、諦めたり、不安がったりする様子はみられなかったのが、本当に印象に残っています。

 

一方、大量リードしながらも逆転負けをしたチームや他の試合で同じように大量のリードをしながらも逆転負けをしたチームの選手なんかは1点ずつさが縮まっていくごとに、表情が固くなったり、不安そうな表情をするようになってました。

 

実際にはリードしてるのに、その選手たちの頭の中ではすでに逆転されているような。。。そんな印象さえ感じました。

正直、大会を勝ち進んできた実力があるチーム同士の対決だと、そこまで大きな戦力差があるとは考えにくいです。ましてやプロじゃなく高校生同士の対決ならなおさら。

 

そんな中で差が生まれるポイントはやっぱりマインドの差です。

 

ビジネスでもスポーツでもマインドが大切と良く言われるから、多くの人はその重要性を認識してると思う。でも、とはいいつつ「やっぱり能力の差でしょ」と思ってる人が大多数なんじゃないかなと感じています。

 

そんな人にはぜひ高校野球の試合中継を観て欲しいと思う。マインドが与える影響の大きさを客観的に気づく絶好の機会じゃないかな。そう思います!

 

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個人的にはスポーツとしてはサッカーの方が好きですけど、

常に選手が動いてるサッカーよりも野球の方が、

選手一人ひとりの表情が見えるので、マインドの差がつぶさに観察できると思います。

オススメのテレビ番組〜こじつけ力を鍛えよう〜

こんばんは、宮城です。

今日は最近オススメの番組について紹介します。

それは、NHKの「Next world」というドキュメンタリーです。
(5話中3話は放送済みですが、NHKオンデマンドとかでも観れるので)

 

人生を充実した楽しいものにしていくには、
世の中にあるいろんな情報を収集しつつ、
それを自分の関係あること、興味のあることに関連付けて考える

「こじつけ力」

を鍛えていくと世の中の物事に対して興味深くみることができます。

そのこじつけ力を鍛えていくのにドキュメンタリーというのは、非常に有効な教材になると思います。

 

で、この「Next World」はテクノロジーが自分たちの生活にどう影響していくのかを検証していく番組です。

 

テレビというメディアの性質上、希望の話でまとめるしかないと思いますが、負の側面もあることを考えて、そこから自分は何をすればいいかを問うのも重要なんじゃないかと思うんです。

 

ターミネーターみたいに、ロボットと人間の戦争ってことは考えなくていいと思うけど、例えば、アメリカで考えるとGDPは伸びているのに、就業人口の増加がそれに追いついていないのは、少なからずコンピューターやロボットなどのテクノロジーの影響がある。

 

 

日本でもセルフレジが増えているのは、顧客の利便性だけじゃなくて、お店側としても、人件費のカットが見込めるから採用しているわけで。。。
最近話題のGoogle翻訳も、この技術によって通訳の仕事や現地のコーディネーターの仕事が減少する可能性は大きくある。

 

これ以上話しても、絶望が大きくなるだけなので・・・苦笑

 

あくまで僕の考えですが、
「人と同じことをしてても必要とされる時代は終わりを迎える」
と思います。
それは事務の仕事をするなとか、コンビニのバイトをするな。とかではなく、より「自分」ってものを見せたり、自分が付け加えることの出来る価値について考えていく必要があるってことです。

きっと今よりも哲学的な観点に近い「人間とは」というのが問われる時代になっていくんじゃないかなと個人的には思います。

 

あくまで僕の視点での未来予測ですが、自分の視点で未来を予想してみるのも、

こじつけ力を鍛えるいい練習になると思います。

http://wired.jp/special/2015/nextworld/

【リスクを楽しめ】

こんばんは、宮城です。

今週、高校サッカーの決勝を観てきました。

 

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いやーサッカーはやっぱり観てると興奮してきますね。

 

実は、この文章はノートパソコンを使って試合の会場で書いてます。

周りからみるとサッカーメディアなどの記者だと思われてるかもしれませんね笑

 

ただ、めちゃくちゃ手が冷たいので、すごく入力が遅くてイライラしてます苦笑

 

書きたいこともあって、文章も頭に浮かんでいるのに手がついてこない。

きっと文章の最後の方は自宅やカフェなど温かいところで書いてると思います。

 

と、余計な話はここまでにして、早速本題に行きましょう。

 

 

今日は、リスクについてのお話です。

 

 

リスクについて、すごく重要なことを木坂健宣さんというマーケターが言ってたんですが、

 

 

“多くの人は「危険」と「リスク」の区別がついていない”

と、

これは個人的にすごく腑に落ちるところだったのでそのことについて話していきます。

 

 

サッカー場でこのことを書いているのにも、ちゃんと意味があるんで安心してください。

 

別に記者風な感じを装いたいわけじゃないですから笑

 

 

まず、「危険」と「リスク」の違いを説明しないといけませんね。

 

僕の中の定義では危険を別の言葉で言い換えると「ピンチ」です。

だから「ピンチ」と「リスク」の区別で考えると理解しやすいかもしれません。

 

例えば、サッカーで相手の選手2名がボールを持って自分のゴールに向かってきたとします。

そして自分のチームは1人の選手とゴールキーパーしかいない状況です。

いわゆる、失点のピンチです。

 

この時に取れる判断としては、

・相手選手のボールを奪いにいく

・一定の距離を保ちながら、相手の動きを遅らせて、味方選手が戻って来る時間を稼ぐ

・相手がもう1人の選手にパスを出すことを予想して、オフサイドトラップをしかける(わからなければ無視していいです)

こんな選択肢があります。

画像のキャプテン翼のゲームみたいな感じです笑

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複数の選択肢がある状態。

この中から何か1つを選択しますよね?

 

ピンチを回避するために、ボールを奪いに行くという選択をした場合は

 

「抜かれる」というリスク
「もう1人にパスを出される」というリスクが増えます。

 

味方が戻る時間を稼ぐために、一定距離を保つという選択をしたとします。

この場合は、

相手がどんどんゴールに近づくわけですから、「シュートが決まりやすくなる」というリスクが増加するのです。

 

これはどの選択をしたとしても同じです。
ピンチを回避するために取った選択は、新たなリスクを増加させます。

 

実はこれは「チャンス」のときにも同じことが言えます。

 

またサッカーで例えますが、
先ほどとは、逆の立場、攻撃側で考えてみましょう。

 

得点する確率を高めるにはできる限り、ゴールに近づけばいいことはイメージできますよね?

 

しかし、ドリブルでゴールに近づく、つまり「チャンス」をものにする確率を高めようとすれば、それに伴い相手にボールを取られるリスクが時間と共に増加します。

 

逆にそのリスクを避けるために、早くシュートを打てば、キーパーが防いだり、ゴールの枠から外れたりと得点できる確率を下げるわけです。

 

つまり、
「ピンチ」「チャンス」と「リスク」常に相関関係にあるということです。

 

大きなピンチを回避するためには、大きなリスクを伴うし、

 

大きなチャンスをものにするためには、大きなリスクを伴う。

 

これは避けられないことです。

 

恋人を作るためには、告白して断られるリスクを背負わなければいけない。

 

自分の好きなことをして生き続けるためには、孤独になるリスクを背負わなければいけない。

 

病気を治すためには、副作用がある薬を飲むというリスクを背負わなければいけない。

 

この相関関係については何となく理解していただけたでしょうか?

 

でも、これだけだと、今回のタイトルである

「リスクを楽しめ」というのはイマイチ腑に落ちませんよね?

大きなチャンスや大きなピンチを作らなければ、リスク自体も小さくて済むじゃないかと。

 

ここからは、僕の仮説なのですが、

よく
“人生は良いことと、悪いこと、トータルでプラスマイナスゼロになる”

とか

“人生の運の総量は決まっている”

みたいなことが言われてたりしますよね?

 

これに対して僕はずっと疑問を持っているんです。

 

だって、運のいい人は常に運がいいように見えるし、運が悪そうな人はずっと運が悪いように見えますから。

 

絶対に50:50ではない。

 

で、ここで僕の仮説なんですが、決まってるのは運の総量ではなく、

“リスクの総量”なんじゃないかと。

 

『人生万事塞翁が馬』じゃないですが、人生という長い時間軸で考えた場合、リスクの総量はどの選択をしても同じなんじゃないかと。

 

たとえば、
好きな人に告白して、それがうまくいった場合。

短い時間軸で考えると一見、良いことだけのように思いますが、

『異性の友達と気軽に遊びに行けない』

『自分の時間が減る』

『あまり乗り気じゃない場所にもデートで行かなきゃいけない』

などなど、長期的に見れば、さまざまなリスクを抱えてるわけです。

 

他にも
第一志望の一流企業に就職できた場合

『優秀な社員が多いから、自分がいつかリストラされるかもしれない』

『馬車馬のように働かされるかもしれない』

『希望の部署に配属されないかもしれない』

などのリスクを抱えます。

 

逆に、人生最悪の経験だと思ってたことが、自分の人生を良い方向に変えるきっかけになった。ってこともよくありますよね。

 

つまり、短い時間軸で考えると、1つの選択に対してリスクの高低や「良い」「悪い」の判断はしやすいけど、長い時間軸で考えると、実は「良い」も「悪い」も存在しない。

 

となれば、短い時間軸でどちらが失敗の可能性が低いのか、安全策を選択するのは、必ずも最善の策ではないのです。

よくドラマなどで、リスクの低い、安全策の選択をして生きてきた人。いわゆる普通の生活を過ごしてきた人が死ぬ時にチャレンジをしてこなかったシーンなどが描かれますよね?

それと同じです。

 

一見リスクが高かったとしても、自分が真剣になれる方を選択すればうまくいく場合は多いです。

 

重要なのは選択ではなく、選択した後、『どのような結果を掴み取るか』ですから。

 

極端な話を言えば、どんな選択をしても、無理やり正解に持っていけばいいわけです。

 

もちろん、選択をした後、できる限りリスクを回避するための準備や行動は必要ですよ‼︎

でも、もし人生という時間軸で考えるとリスクの総量が変わらないとするならば、人生の中にあるリスクというダンスミュージックを楽しんで終わればいい!

“リスクを楽しめ”
“リスクに興奮しろ”

そんな感じで生きればいいと思います。

今日は以上です。

僕のこの行動だって、短期的に見ればリスクの方が多いですから。

文章書くのに時間はかかるし、わかりやすい内容じゃないから、なかなか伝わらないし、長いし…苦笑

この前もコンサルをお願いしてる人に、

「何がしたいのかよくわかんないです」

って言われましたからね。

それでも、楽しいから止めないし、興奮するから止めません笑